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施術家としての出会い |
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26歳で鉄道を辞める。(55歳での定年時〔人生路線〕が見えたからである)家族にかなり反対されつつ、「自分の天職はなんだろう」と3ヶ月間一人自宅に籠り、200冊の書籍を読破。日本全国の旅に出る。親類、友達、知り合いのいないところ九州で自分はどれだけできるのか、また何ができるのか試したかった。とにかくなんでも一生懸命にやれば自分の天職が見つかるはずと・・・・・・・。
2年間無我夢中で又無休で働いた。結果得たものは急性肝炎、一ヶ月にも及ぶ入院であった。退院後、体がだるい、急に発熱が起こる。違う病院を紹介され、つけられた病名が「心身症」あの20数年前小田切機長が飛行機を逆噴射して墜落させたときの病名と同じである。気力なく、何かしなくてはいけないと思いつつ、何もする気がしない私は寮に1人でいた。そのとき仕事でお世話になった人から電話が入り、うちで静養しなさいとのお言葉に甘え、それから。毎日犬と散歩するのが日課であった。私にはこうした空白の1年間の日々がある。
あるとき、お世話になっている人に「そんなに体がだるいのなら接骨院でもいって揉んでもらいな」とのことで接骨院へ行き、入るなり私の体に電流が流れるがごとき充電されていくのがわかった。「これだ」恥も外聞もなかった。先生に「私もこんな仕事がしたい、どうすればなれますか」先生は私に圧倒されてしまったのか本を片手に持ってきてくれた。それはこの業界の専門誌だった。そしてページをめくり、東京に行けば働きながら学校に行けるところがあると聞き、3年間居た九州を一路東京へと向かった。 |
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施術家としての出発 |
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東京に着いた私は大田区の接骨院にお世話になりました。この業界は封建的なもので最低賃金など関係なく朝の8時から(昼2時間)夜9時までマッサージ(親指が3ヶ月間伸びたままで曲らない)
そして月10万円のお給料、学校に入るためのお金5万円を貯金し、家賃2万5千円、光熱費5千円、施術家は毎日お風呂に入り清潔にすることが義務とのことで銭湯代〔当時350円〕1万円、残りは食費代1万円〔一日300円〕での生活であった。学校に入りこの3年間で理論を学び、技術、テクニックを身につけるため、朝8時から5時まで整骨・整体・カイロ・整形外科・総合病院とあらゆる知識、技能を学んだ。3年間で引越しした回数12回、学校を卒業する頃には自分で開業できるくらいの段階にいました。 |
自律神経調整法へのプロセス
始めに私が望んだ施術家は病気を「治す」「治せる」というものでした。ところが痛みを取り、楽になることが、イコール治った。と多くの患者さんはじめ病院・医師・施術者は思っている。外的感染・不可効力・急性的内臓疾患を除き、治ったと思われた疾患が数日または数ヶ月経つとまた同じ場所に痛み・こりとして現れる。これはなぜか。そして「治った」という指標が実に曖昧であること。
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好転反応
(からだが良くなっていく段階で痛み、おもだるさ、微熱、しびれなどが体に生じること) |
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自律神経調整法はなぜ治るのか、どこを施術しているのか |
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治っていく段階が、客観的に示すことができないこと。 |
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「治った」という明確な指標がないこと。 |
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検査法が医師、施術者の主観的なものであること。
(この症状にはこれ(薬)この状態では(Oリングorその応用)脈診・舌診・ツボ診断) |
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施術後まだこの辺が(痛い・おもい・違和感)・・・。ではなくて「スパン」と取れる施術法の確立。 |
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そして治癒に至るまでの患者さんの納得施術及び継続法の確立。 |